September 22, 2024
晩夏初秋の新作紹介 vol.18 CANTONの1963XX Denim Late 1930's 5 Pocket Jeans “#1963-104” (中編)
今日は朝から結構な雨。とはいえ昼頃には上がる、という予報だったのでまぁ良いや、と思っていたんですが、実際蓋開けてみたら夕方にも少し降る時間帯があるという予報に変わり。なんだよこれ、危ねぇなぁ、と嫌な予感がしているのと、昨日時間切れで取り敢えず無理矢理キャントンの隆盛から見る日本ジーンズ発展史を、ジーンズの聖地児島誕生のところまで書いて終わってしまったので、気持ちが悪くて取り敢えずアイテム紹介にたどり着く前迄は出勤してきて昨日動いたアイテムの補充なんかをしたらすぐに書いてしまおう、という事でブログに取り掛かっております。結論から書きますが、キャントンの栄枯盛衰について書く中編と、今回のアイテム紹介そのものとなる後編の2回分に分けて、計3回の前編・中編・後編に分けさせて頂く事にしました。後編だけにするととても長くなりそうなので。おいおい、随分とジーンズ1本紹介するのにかけるじゃないかよ、と思われる方いるかもしれませんが、この説明がないと何故に今回このジーンズを取るに至ったのかが伝わらないので、申し訳ありませんがお付き合い下さい。
さて、戦後から1980年代にかけてのジーンズをめぐる我が国での趨勢なのですが、昨日書いたのは1965年頃までの話。そんな作っても作っても物が売れるなんてなんて良い時代だったんだろう、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、世の中そうは問屋が卸さないんですねぇ。まだジーンズ戦国時代的に今では知る人もいないファクトリーブランドが乱立した児島ですが、未だEDWINも誕生していなければ、クラボウもカイハラもクロキもいない、つまりまだ国産デニムは織られていないんです。しかし色々と問題が発生してきます。
児島以前から元々群馬の渡邉縫製で作ったのが国産ジーンズ第1号だというのは書きましたが、そもそも縫製業というのは設備投資が必要な上安価な製品が多くを占めるので工賃が安く当然人件費も安いんです。それ故に地方都市や交通の弁の悪いが故に人件費の安い地域なんかで発展し、ある程度街が発展すると他の産業に人が流れて人件費の安い縫製業からは人が離れてしまいます。しかもある程度以上の技術が必要という困った仕事なのです。だから先進国でも貧しい地域へ、次に先進国から発展途上国にアウトソーシングされ、それがどんどん変遷していく。米国から日本、日本から韓国、韓国から中国、そして中国からベトナムやインドネシアやバングラディシュ等さらに人件費の安い所に仕事が流れていくのです。それは経済成長めざましいこの時期の日本でも同じ事で、関東でキャントンの生産委託をされていた埼玉の縫製工場や群馬の渡邉縫製等では今も日本の主力産業である自動車や電化製品の工場が進出してきて人材確保が難しくなり縫製工場の経営が今の人手不足倒産と同じ構造で厳しくなってきます。そして児島でもファクトリーブランドの生産が主流になり、キャントンの業務委託枠がどんどん縮小されてしまい、需要に対して供給が大きく少ない状況になります。
それでもブランドスタート3年後の1966年の段階でキャントンの生産数は年間10万本以上の規模になっていて、今では想像も出来ない恐ろしい売れ方になってました。しかしそうなるとその生地を供給している米国CANTON社からしても日本市場は一大マーケットであり、大石貿易のジーンズブランドCANTON、商標権を取らずに無断使用していた、発展途上国あるあるに当時の日本企業も陥っていたみたいでして、1968年に米国CANTON COTTON MILLS社から社名を使用するライセンス料を払えという訴訟を起こされます。まぁ当然ちゃ当然な事ですし、もし米国CANTON COTTON MILLS社が日本法人を作ったり他の商社を通じて生地を流通させたりするとCANTONネームのジーンズとCANTON生地使用を謳う他のジーンズブランドが混在してカオスな状況になりかねません。ここで日本で最初に作られたジーンズ初代CANTONのネームは途絶え、大石貿易のジーンズブランドはCANTONからBIG STONE(今見ると笑えます、大石ですからw)に改名します。とはいえ、これ調べてみると米国CANTON社は第二次大戦で荒廃して生産能力を失っていた欧州への繊維輸出で大儲けしていたのですが、欧州の復興が進んだ1950年代後半から輸出量は減り米国繊維産業は不況に陥り、1958年には所謂レイオフで週4日の生産にするレベルになっていました。1961年には近隣のエトワ川が氾濫して全ての工場が浸水して長期的な工場閉鎖を余儀無くされ、大石貿易がデニムを買い付けた1963年頃には経営不振に陥っており、しかもこの年労働組合が結成されてストが3ヶ月も続き翌1964年1月まで生産量が激減するという状況でした。それ故にCONE MILLS社がけんもほろろに商談に応じなかったのに対し、少しでも売り上げを上げるべく大石貿易の話に乗った訳でして、そんなCANTON COTTON MILLS社にしてみたらそれなりな商売になったんだからライセンス料も寄越せ、と言ってくるのも当然。そしてCANTONネーム問題がライセンス料の支払いではなく改名で終わってもデニムの卸売を止めなかったのも大人の事情として順当でした。
ただこの時点で実はとんでもない大問題が発生しております。しかしそれに当時の日本では気づいておりません。現代のデニムに対する見識がジャパンジーンズ黎明期にはなかったのでしょう。こう書いている私もそれを1980年代の中学生時代に把握していたかというとそんな事はなく、色気付いてファッションに興味を持った高校生以降でしたから、気づいちゃったのって。何が起こっていたのかというと、1961年のエトナ川の氾濫による浸水以降経営状況が悪化したことにより、CANTON COTTON MILLS社の経営陣は必死に生産効率を高めようとした結果、1963年に当時既に時代遅れになっていた旧型織機で構成された第1工場を閉鎖し、革新織機で構成される近代的な第2工場を昼夜交代制で24時間稼働させる事にしたんです。この切り替えで工場の従業員が不安に陥って労働組合が結成される事になったのですが、そう、1963年の10月以降CANTON COTTON MILLS社のそれまで作っていた旧型力織機による味のあるデニムは失われてしまいました。つまり、日本のCANTONのデニムは最初の年だけコーンミルズ社のXXデニムとまた違った味の耳付きのデニムであって、それ以降は革新織機による広幅のデニムで作られた物であり、後に日本のデニムのクオリティを世界的に知らしめるカスタムした旧型力織機による極端な斑糸によるディフォルメされた味のあるデニムの元となった、古き良きアメリカンヴィンテージデニムと同等のレシピによる生地はこの時点で失われてしまったのです。
実際にこの旧型力織機によるデニムこそが古き良きヴィンテージデニムジーンズの魅力だったという事に日本人が気付くのは1975年に発行された“Made in USA catalog”によってTVドラマや映画からしか米国のファッション情報が得られなかった時代に米国製アイテムの魅力を圧倒的な情報量で紹介されてからです。因みにこの雑誌の編集メンバーが中心となり今も健在なファッション雑誌“POPEYE”が創刊されるのですが、そこで初めて米国でも珍重されるヴィンテージジーンズというものを認識するに至る訳です。
ちょいと話が先に進みすぎたので日本の歴史に話を戻して、1968年の改名以降も売り上げを伸ばし続けたBIG STONEですが、生産を安定させる為に縫製業は人件費の安い地域に変遷する法則に則って宮城の河南町(現石巻市)に念願の自社工場である東北ビッグストンを設立し、250名が働く大工場に発展させ、秋田に第二工場を持つまでになり、年間150万本を生産する様になります。今じゃ考えられない売れ方ですよね、これ。しかしここで世界的な経済ショックが発生。そう、オイルショックです。イスラエルと中東諸国の第4次中東戦争で中東諸国で構成されるOAPEC(石油輸出国機構)がイスラエルを支持する国に対して経済制裁として石油の輸出価格を4倍にした事による経済ショックですが、エネルギーを輸入に頼る我が国は今も変わらず同じ問題を抱えているので理解出来るでしょうけど、まぁ最悪ですわな、これ。原発反対という政治家はこの問題をどう説明してくれんだか、原発開発が進んだのもこのオイルショックで火力発電所を動かす重油が高くなっても安定して電力供給が出来る体制を作る必要があったからであって、現在の様に発展途上国の二酸化炭素排出枠を買って火力発電でガンガン二酸化炭素排出しまくっているのに目標達成は微妙とか言っている恥知らずな環境保護への取り組みよりかは安全性の向上に取り組み続ければ原発のほうが随分とマシな気がしますけどね。再生可能エネルギーへの変換も結構ですが、だったらその設備投資分電気代が上がるのもやむなしという事になりますが、値上げには何がなんでも反対という人の方が多いでしょうから。
また話が脱線しそうなので元に戻しますが、これによる不況で日本中に溢れかえっていたジーンズショップは凄まじい勢いで倒産し、売掛金の回収が急速に悪化する中で日々5000本のジーンズが生産されるんですからそりゃBIG STONEの経営は更なるスピードで悪化します。その対策として工場の操業を停止して膨大な在庫をダンピングも良いところの投げ売りをして在庫を現金化する事で一時的に対処はしましたが、結果として消費者からのイメージが地に落ちてしまい、それまでの勢いがブーメランで逆風となりヴィンテージデニムの再評価によるヴィンテージレプリカブームに繋がる80年代を待たずして倒産してしまいました。
そんな中でも地元密着でジーンズの生産拠点として進化し続ける児島では1973年にクラボウがそれまで輸入に頼ってきたデニムを紡績・染色・織布までの全工程を行う初の国産デニムKD-8を開発する事に成功。その生地を使って翌年1974年にBIG JOHNが発表したのが、生地から縫製まで全てを国産化した純国産ジーンズ第1号となります。そしてそれにカイハラやクロキが続き、紡績から製品まで一貫して製造可能なデニム製品の世界最大拠点ともいうべき児島の街が成立します。全てが同じ地区にあるというのは最大の発展要因でしょう。
と、CANTONは1968年に消えてしまい、後継ブランドBIG STONEは倒産してしまいましたが、ジーンズ自体はベトナム戦争反対のフラワームーブメントの米国で生み出されたベルボトムやブーツカット、そしてそれを見てファッションを組み上げた全共闘・フォークゲリラ世代の若者はジーンズをデフォルトにしたので、人気はより高まり、大石貿易とBIG STONEは系列企業ですが経営は別という事で大石貿易は存続しており、BIG STONEの各工場はそれぞれ再建されて石巻の東北ビッグストンはラングラーの工場になり、秋田ビッグストンは別会社に買収されてエドウィンの協力工場になっていきました。
そして80年代に入り、米国では1981年に旧型力織機によるセルヴィッジデニムを使ったジーンズが消滅したのに対し、日本では大量生産の中で失われてしまったジーンズの魅力を再発見するべく、かつて1963年に大石貿易がやったのと同じ様に米国のジーンズを解体してパターンを起こして自ら生産を可能にする作業ではあるのですが、40年代50年代のヴィンテージジーンズを解体してディテールを研究し、生地を分析して何がその魅力を生み出しているのかを検証する作業を考古学的なアプローチで行うという、世界のファッションの流れとは真逆の作業を行い、温故知新というべき動きが発生します。80年にビッグジョンがセルヴィッジジーンズを発表して大手メーカーもその動きを見せましたが、より先鋭的にヴィンテージデニムの良さを追求してストゥディオ・ダ・ルチザンやシュガー・ケーン、ロデオアンクルにドゥニームといった作り手のデニムへのアプローチは違えども日産5000本では出来ない作り込みをした2万前後のジーンズを提案し始め、結果それが1990年代のヴィンテージレプリカブームを産むに至ります。そしてそんな中1984年に大石貿易がCANTONブランドを復活させます。それはオイルショックの影響を受けて1981年に米国CANTON COTTON MILLSからCANTON TEXTILE MILLSに改名していた会社が倒産した事で商標問題が解決したからでもありますが、ヴィンテージデニムに対する評価の高まりの中、リーバイス日本史社一期生だった大石正夫氏(創業社長と同性だが無関係w)が大石貿易の社長に就任し、日本初の国産ジーンズの名を冠するブランドを復活させるのに革新織機で織られた紙っぺらのようなデニムにはない味を吹き込むのが当然とクラボウに依頼して織ったオリジナルのセルヴィッジデニムを使って3種+阿波正藍綛染の4種類をラインナップして本気のストイックな岡山製ジーンズメーカーとしてスタートし、1990年代のヴィンテージレプリカブームではその血統の正統性と哲学的に高く評価されてはいましたが、如何せんバリエーションが少なく。結果的にこの復活は長くは続かず、バブル崩壊後の第1次ヴィンテージレプリカブームの終焉と共に2003年に大石貿易の倒産という形で終焉を迎えます。
ですが倒産前の1998年から大石貿易のCANTONは原点に立ち返ろうと1963年に最初に輸入された旧型力織機で織られた未防縮デニムの表情を再現しようという構想があり、研究を進めてはいたのですが実用化を待たずに倒産していました。それを大石貿易倒産時に負債を負っていた繊維商社の豊島がCANTONの商標権と共に2003年に継承。そこから創業当初に使われていた生地をよりバージョンアップしたクオリティで復活させるプロジェクトを更に5年をかけて2008年、CANTON OVERALLSとブランド名を変え、CANTON 1963XXデニムとしてして復活させました。
漸くあとちょっとで今回の新作紹介に移れるのですが、2008年からもう16年経ってんじゃん、今更なんでやろうってのさ、という疑問もあると思いますし、もうちょっとだけお付き合い下さい。
未防縮のデニムというのを謳っているメーカー、幾つかあるのですがこれ単に未防縮では意味がないのです。元々旧型力織機で織られた生地が良いとされるのは縦糸のテンションを緩くすると凹凸が出るからなのですが、未防縮の糸というのは縮むだけじゃなく伸びもするのです。天然素材である綿を紡績する紡績技術の問題でして、現代では毛羽のない均一で斑のない糸を作る事が可能ですし、先に蒸気に当てて防縮する事も可能です。それに対してかつてのガラ棒の紡績機程ではないにしろ、旧型の紡績機で紡績した糸は不均一で斑がありました。それが良い味というか糸自体が凸凹していたんですけど、それを力織機で織る事で相乗効果を生み出していた訳です。ですが防縮していない糸の味を活かすのであればテンション緩めとかいうレベルではなく、伸びないギリギリのテンションでゆっくり織るしかないのです。ですがそうすると非常に生産効率が悪く、このCANTON 1963XXは何と1台の織機で1日に30m弱しか織れず、つまりこれ1日に1反織れないという事に。通常の旧式力織機である程度テンション緩めたといっても1日に10倍程度は織れます。なので単純な1台の生産量で割ると10倍の価格になってしまうのですが、それはあまりに無理があるので、通常はこの1日30m弱なんてのは受けてもらえません。なので一般的に未防縮を謳うデニムは速さは通常のまま糸を未防縮にしているので、伸びた状態で織られており、その違いは明確に価格に反映されてしまいます。
今の場所に移転する以前、店舗での営業を開始した1998年からEVISUジーンズを取り扱ってきましたが、当時のEVISUで8割防縮したNo.2デニムのジーンズで17,800円だったのに対し、同じレベルで生産効率が悪い未防縮のNo.1デニムのジーンズで27,800円。その後値上がりして2010年頃にはそれぞれ2万円台前半と3万円台前半に値上がりして以来そのままの価格で販売しておりましたので、お買い上げ頂いた未防縮のNo.1を毎回洗いに行って裾上げ出来る状態にするのを請け負っていた私としては、3バリエーションしかないCANTONを今あえてやらなくても良いよな、と思って取り扱いをしてきませんでした。EVISUの栄枯盛衰についてはまぁこの際置いといて、そのEVISUでも今はNo.1デニムをほぼ生産しておらず、物価高が進む中ジーンズの価格は据え置きだよなぁ、と思っていたら、生産効率の悪さにもうこれ以上は無理、という事でクラボウが今までの価格で1963XXの生産を請け負うのは終了という事になったそうで。そう、つまり本当に未防縮の糸を使って最低のスピードとテンションで旧型力織機で織ったデニムは少なくともクラボウ(EVISUもクラボウのデニムでした)はもう織らないという事なんでしょう。
そう、この1963XXデニムは生産を終了してしまい、このデニムを使って作られるアイテムは現在生産された分のみ、となってしまいました。こうなってくると話はまた別じゃないですか。気が付いたらもうディフォルメされた安定のクオリティのセルヴィッジジャパンデニムは豊富にあるにしても、このクオリティはもう手に入らない、という事になりますから。これはやっておかないとあかんでしょ、という事で今回特に28・30・32インチに関しては取ったモデルの在庫の全てを総浚いして取る事になりました。
とまぁこれで日本ジーンズ史における第1号国産ジーンズメーカーを継承し、米国でも倒産して現存しないけど一時世界第3位のデニムメーカーであったキャントンミルズの傑作デニムを復活させるプロジェクトにより生み出されたけれど今また失われてしまったデニムを使い、ヴィンテージディテールを散りばめつつ現代的なシルエットで作られたアイテムを今期取るに至った経緯のお話はおしまいです。
長らくお付き合いくださった皆様、てかオメェが長々書くから付き合わざるを得なかったんじゃないかよ、という方も含め、お付き合いありがとうございました。明日は満を持してこのデニムを使い1930年台後半のディテールを散りばめたジーンズの紹介とさせて頂きますので、お楽しみに。
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