September 21, 2024
晩夏初秋の新作紹介 vol.17 CANTONの1963XX Denim Late 1930's 5 Pocket Jeans “#1963-104” (前編)
連休初日。まぁ前回と同じでお出かけしている方も多く、夕方までお客様がいらっしゃらなかったのですが、昨日書いた様に昨日予定していた納品が今日にズレ込んだ事もあって、品受けと検品と品出しで忙しくしておりました。その後夕方からお客様がポツポツといらして下さり、最後のお客様が22時半過ぎまでいらしたので、お帰りになってから慌ててブログを書いております。それもあって今日は前置き少なめで本題に入ろうと思うのですが、本日入荷した中から予告していた通りジーンズの紹介をさせて頂く事に。
で、夕方前から画像の修正やなんかはやっていたんですが、あまりに語る事が多いのと今日のこの時間になっている事もあり、今回は前後編に分けて2回に渡って紹介させて頂く事にします。
そして、このブランドが何たるかを書こうとするととても長くなってしまうのと、資料を集めていなかったので、今日は写真無しの字面で私の日本ジーンズ史の知識を基に描かせて頂く事にします。後から資料写真をつけるかもしれませんが。
日本人で最初にジーンズを履いたのは白洲次郎氏だと言われておりますが、こちらも諸説あるんですけど日本人がジーンズという物を知らしめて広まったのは戦後闇市だったと言われております。何しろ我が国は物資不足な上生産機能も失われておりましたので、闇市には米軍の放出品や彼等が使い古した古着なんかが出回っておりました。その古着の中に着古して色が抜けたジーンズがあり、それはわが国のもんぺ等に比べたら古着なのに丈夫でしたし、戦後復興の作業に使う作業着として人気商品となったそうな。
闇市にそれらの品を供給する、米軍関係者と取引出来るコネクションを持った仲買商社が幾つかあり、それらが我が国のジーンズ史に深く関わってきます。その中の一つが大石貿易でありその社長が後にキャントンを立ち上げる大石哲夫氏でした。因みに大石貿易は都内最大の闇市のある上野の南側、秋葉原に、後にEDWINとなる前身の常見米八商店は北側の日暮里に本社を構えておりました。日暮里の繊維問屋街の入り口、日暮里駅側に未だエドウィンの残反を売っている店があります。
さて、その大石貿易の大石哲夫氏、古着のジーンズが日本で人気なのを認識していたのですが当時の日本にはデニムを作れる生地メーカーがなく、1963年に繊維輸入自由化された事から米国からデニムを輸入して日本で縫製する、半国産ジーンズを作ろうと考えます。1960年頃には大石貿易は米国からリーバイスの新品や中古のジーンズを輸入して全国に卸す販売網を確立し、リーバイスジャパン社のない頃なので、日本有数のジーンズの輸入貿易商社に発展しております。戦後闇市で身を起こした仲買人から考えたら大発展ですが、だったら国産で低コストのジーンズを作って更に儲けよう、となったんですね。
そして米国に生地とミシンの買い付けに行くのですが、業界最大手のコーンミルズ社はまぁ言うなればジャップになんぞ売ってやるもんか!という感じで門前払いをくらい、業界2位のキャントン社と契約してデニムの買い付けには成功。そしてそれに続いてジーンズを縫製するのに必要とされる特殊ミシン一式も買い付けます。そして群馬の渡邉縫製で作られたジーンズが国産第1号ジーンズ、つまりこれが日本初のジーンズという事になります。
そして1963年、生地メーカーの名を冠したCANTONの名前で日本初の国産ジーンズを発売するのですが、築いた販売網を使ってこのジーンズを売るも全く売れず。そう、日本人は糊付きの生のジーンズを見た事がなく、縮みも考慮せず最初から柔らかなユーズドのジーンズしか知らなかったんです。その為売上不振な上クレームの嵐。縮んで履けないとか色落ちして下着が青くなったとか今ではあり得ないクレームが殺到したみたいです。そこでかつて中古のジーンズを洗っていた洗濯機で新品のジーンズを洗ってワンウォッシュにして売ったら飛ぶ様に売れてCANTONはジーンズとして日本を席巻する事に。
作っても作っても追いつかないぐらいに売れまくったキャントン、群馬埼玉の縫製工場を多数使いましたがそれでも追いつかず、学生服の産地である岡山の児島なら厚いデニムも縫えるだろう、というので尾崎三兄弟の長男、尾崎小太郎が経営するマルオ被服に生産委託をします。ここで初めて児島でジーンズ!というのが誕生するのですね。そしてマルオ被服がフル稼働するのを見て次男三男が経営している山尾被服もキャントンの生産委託を請け負う様になり、洗い加工を請け負う工場なども近隣に出来てジーンズの街児島は発展し始めた、という訳です。
そしてノウハウを身につけた2社はキャントンの生産を請け負う傍ら自社でマルオ被服はBIG JOHNを、山尾被服はBOBSONを自社ブランドとして立ち上げて大成功します。それを目の当たりにした児島の学生服工場はどこもかしこもファクトリーブランドを立ち上げて、これが当時は作れば作る程売れた事から空前のジーンズバブルが児島を席巻。これにより児島は今に続く国産ジーンズの聖地となったのです。
さて、ここまで書いて日付が変わりそうなので、残りは明日。キャントンが日本のデニム第1号だった事はお判りになったと思いますので、それが何故今回取ったジーンズに繋がるのか、書かせて頂きます、お楽しみに。
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23:55:00 |
mercier |
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